小麦粉惑星

誰かいつもマーガリン潰してる。

ゴジラとか観るときに思うこと

 そんなに数見たわけではないのだがゴジラ映画観ると面白いな、好きだなと思うのは、結局自分が男の子だったからなのだろうと思う。どんな御託を並べるよりも自分が男の子だった期間を過ごしてきたことが理由になる。  幼稚園や保育園に通うようになると教室には恐竜図鑑があり、それらの四隅は丸くよれよれになっていて、ティラノサウルスアロサウルスのページにくせがついている。何人もの男の子たちが何度も手に取るからだ。今はいない恐竜に想いを馳せる、こんな生き物が昔の地球には居たんだ、へえ。そんな体験があるからこそ、ゴジラ映画や怪獣が出てくる映画を男たちは好んで視聴するのではないだろうか。

 僕が劇場で初めて観たゴジラ映画は、TOKIOの松岡くんとケインコスギが出てくる『ゴジラ final wars』だった。怪獣たちがオールスター出演で、世界各国に怪獣が出現しては地球防衛軍が科学の力で対抗し、途中からはゴジラが出てきて半ば共闘するというような映画だったと思う。このゴジラは割と地球のために闘っているような描かれ方をしていた気がして、幼稚園年長くらいの僕はゴジラを人間サイドの味方のように思っていた。子どもの頃の感想としては丁度良いと思うのだが、今となって考えてみると、ゴジラは人間の愚かさが生んだ化け物であって、決して人間の味方ではない。そして人間がコントロールしきれなかった化学力によって生み出されたものはコントロールすることができるはずがない。人間が支配下に置くことができない存在として物語の中を自由に動き、意思があるかはわからないけれど、何か意図があるように行動する。ウルトラマンには正義の心があっても、ゴジラにはない。巨大で、強いのはウルトラマンと同じだが、正義の味方ではないのだ。

 幼少期は「巨大で、強い。」これだけに意味があった。途中からただ怪獣たちの戦いが延々と続くだけであって、血が流れても血生臭くない。破壊されてゆく人のくらしが段々と描かれなくなり、怪獣メインの場面ばかりになる。ミニチュア模型を壊すくらい簡単に街が、都が壊されていく。それにあっけなさはあっても生々しさはない。ただ壊れるだけだからだ。人の死をそこまで映さない。だから、物が壊れるだけの映像のように幼少期は感じられる。何も気にすることなくゴジラ映画を楽しめた。

 しかし、少し年齢が上がってから観ると、そっちの方面ばかりに考えがいってしまう。壊される街の中には逃げそびれた人がいて、渋滞した高速道路では車から降りて絶望に叫ぶ人がいる。自分以外の家族を必死に守ろうとする人がいる。作品の中で決してクローズアップされない人間の足掻きがあり、失われる命がある。救われるのなんて極一部で、救われない人の方が多い。ゴジラの足踏みで壊される家屋があって、放射線を含んだ熱光線で人が住めなくなる土地がある。大きなものと小さなものの力の差は歴然としていて、地球を支配していたはずの人類という存在はゴジラや怪獣の前では明らかに無力だ。強さの本質がデカくてパワーがあることだと気付かされる。人類が培ってきた技術云々ではなく、やはり自然のダイナミズムの強大さを思い知る。恐竜の時代が終わり、生き残った哺乳類が進化を遂げ、人類に、そこから続いてきた人間の営みの中で私たちは多くのものを犠牲にしてきた。犠牲にしすぎたのだ。そのしっぺ返しをゴジラ映画で描いている。それを大きなくくりで見たり考えて見たりすると人間の自業自得だが、地球に住む個人単位で考えれば理不尽なカウンターを受けることであって、人類としての業はあっても、個としての人生には無関係だ。日常では顕在化しない事象がゴジラ映画では顕れる。しかし、どの映画であっても最後には人類としてのレコードは続いていくのだ。東京が、大阪が、ニューヨークがめちゃくちゃになっても、人口の何割かが亡くなったとしても人間たちの営みは物語のあとも続いていく。怪獣の出現、怪獣たちの戦闘は超弩級の災害として、天災としてその後の歴史に刻まれる。どうにもならないカタストロフィが起こったとしても人類の未来はあって、破壊に対する、再生へ人類はアプローチしてゆく。怪獣は破壊するものであって、地球を再生できるのはあくまで人間だけなのだ。ゴジラが事を鎮めたからといってその後ゴジラが地球を統治するわけではない。地球に生まれた生物としての各役割を正すわけではない。全てぐちゃぐちゃにされても中心は人間で、これがやっぱり面白いなぁ。