小麦粉惑星

誰かいつもマーガリン潰してる。

砕ける、破る殻は卵の。

 好きな人が誰かの悪口を言っているのを聞いた時、心が砕けていくような気がした。悪口は良くないとかそういうことじゃなくて、自分の脆さや弱さだ、これは。どんな悪人にも良い部分はあると思えるのに、どんなに善人であっても黒い、暗い部分を持っている可能性があることを忘れてしまう。

 人を信じられることは素晴らしいことで、眩しいことで、でもずっとただそれだけじゃ自分は幼いままだってことを認識できていない。コインの表裏があることを知っているだけじゃ、半分くらいしか意味がない。表を見て、表だと認知する、裏を見て、裏と認知する、それではスピードが足りていない。コインの側面を見て、表裏を意識し続けることが、一種の「大人になるということ」で、表の世界、裏の世界をひとつの世界としてなべて、認識することで私たちは、はじめて本当の意味で生きていけるのではないか。そして、裏表は世界にある二元論全てに対応する。

 一昨日から読みはじめて、今日『デミアン』を読み終えた。先ほど書いたようなことを思った。主人公のシンクレールは、惑う。正しい道を分かっていそうなのに惑う。同年代の人間より、鋭敏に研ぎ澄ませて生きているせいで、環境に馴染むことを選べない。何度も堕落しかけては、楽ができそうな自分ではない他人の道を歩もうとしてしまう。でも他人の道は歩めない、シンクレールは上手くいかない。

 道を踏み外しそうな彼をいつも導いてくれるのがデミアンという少年だ。デミアンは彼に幾度も言葉を残しては掴み所なく去っていく、それはシンクレールが悪い環境、精神の悪循環から抜け出すヒントになっていて、その度にシンクレールは成長していく。トライアンドエラーを繰り返し成長していくシンクレールの姿は、この小説の大きな柱であると思う。デミアンは能力のある人間で、大人顔負けの雰囲気があって、凄みがある。しかし、シンクレールにとってデミアンは、救世主としてのデミアン、通じ合える学友としてのデミアン、嫉妬し、憎むべきデミアンなど幾多もの側面を持っている。憧れでありながら、自分より先をゆくデミアンはコンプレックスの象徴でもあったということなのだろうか。存在としてのデミアンと別に、シンクレールの精神の中で増殖し、投影されていった形のないデミアンは、シンクレールと最後融合?する。書いてて訳がわかんないけど、あれは融合だろう。デミアンは理解できたとしても結局他者で、異物で、シンクレールにとっての光で、悪魔で、それと一体化することがシンクレールの成熟のゴールだったのかな。

 シンクレールの宗教観が物語が進むにつれて、変わっていくのがこの小説のもうひとつの柱だと思った。少年時代、ラテン語学校に通い、聖書を学ぶことに疑いがなかったシンクレール。デミアンと出会い、カインとアベルの話に対する逆説的見方を知ったシンクレール。神でもあり悪魔でもあるアブラクサスに真理を見出すシンクレール。物語の終盤、一種の精霊信仰に興じ、その結果命を経とうとしている同級生に、信仰ではなく人間としての生の可能性を伝えるシンクレール。段々とニュートラルな考え方に変わっていく彼、植えつけられた考え方じゃなくて、幼少期から持っていた考え方のピースを生かして成熟していく過程が熱を帯びたものだった。

 この作品自体、シンクレティズムをモチーフのひとつとして描いているのだなと思った。(主人公の名前もそれにちなんでいる…?)、そして、特定の信仰に対して、非難したりというのは無かったのが良いと思った点だ。人間として生きる為に、観察と思考、そして直感を持つことが大切だというように読めた。その人なりに観察し、考えて選んだ生き方は賛成はできなかったとしても、否定されるべきではない。でも、何事にも自我をどこか少しでも残さないと、意味も価値もない。卵の中の世界を捨てるとき、卵の殻を割る原動力になるのは自我でしかないのだから。

 信仰の有無とか、これまでの経験とかが、この小説読んだときの感想の違いに出てくると思うし、自分が来月『デミアン』をもう一度読んだら、また考えることが変わってくるだろう。自分に大人になる惑いがある限り、何度でも顔を変えてくる作品だと思う。

 まだなんとかさくっと読める分類ではあると思うので、興味が湧いた人は読んでみて。冬が終わるまでに、是非。