小麦粉惑星

誰かいつもマーガリン潰してる。

【感想】 『断片的なものの社会学』

 私は日本語ラップというものをなんとなく聴いている。ヒップホップは分からないのだけど、ああやって日本語を巧みに配置し、韻を踏み、言葉を伝えるということに面白さがあるように思う。単語同士に関連する意味は有っても無くてもいい。有ってもカッコいいし、無くてもカッコいいのだ。でもそのメカニズムを誰も伝えない。いや、正確に伝えられない。聴いた人がカッコいいと思ったからカッコいいのだ。歌詞から、踏まれた韻から、バイブスから、リスナーは輝きを見つける。その輝きは何なのか、完璧に定義づけることはできない。

 近年、フリースタイルバトルというものが流行っている。ラッパー同士が相手に対して、disったり(尊敬できないところを言う)、そのバトルに対する熱意をぶつけたり、レペゼン(住んでいる地元や所属している団体の良いところを言ったりする)したりして勝敗を決める競技である。そこまで詳しくないのだけど、落語家の大喜利的側面があるのではないだろうか。それ自体が本質で無くとも、本質に根付いた経験が活かせる競技である。ラッパーに色んな攻め方があるし、守り方がある。柔軟にアプローチを切り換えられる強みを持つ人もいれば、スタイルを貫き通すことで圧倒する人もいる。勝敗も会場のリスナー次第だ。どっちがどれだけリスナーを巻き込めたか、魅了するようなカッコ良さがあったか、輝きが見えたかによって勝者と敗者が生まれてしまう。本人達が実際に持っている熱量であったり、気持ちであったりは本人以外分からないはずだ。でも、勝敗は聴衆によってしか判定されない。

 

 「フリースタイルダンジョン」という番組がある。フリースタイルバトルに焦点を当てたテレビ番組だ。この番組は、近年の日本語ラップブームに火をつけたひとつの要因だと思う。笑点とクイズミリオネアがくっついた感じだと思ってくれると分かりやすいだろうか。

 中堅や人気、実力のあるラッパー(その世界は人気と実力は密接に繋がっていると思う。実力があるだけというのはあり得るかもしれないが。)がダンジョンのモンスター(防衛者)となってチャレンジャーと闘う。モンスターを倒す毎に賞金を獲得できる。4人倒せば50万円である。当然途中で辞めることも可能だ。負ければ賞金は没収される。しかし、多くのラッパーはモンスターを倒しても、途中で辞めることは少ない。(賞金の使い道が明確に決まっていて辞めるチャレンジャーも少数いる) なぜなら、4人のモンスターを倒した場合、最後のボスと戦う権利が与えられるからである。倒せば100万円とダンジョン制覇の栄光を掴み取ることができる。だからチャレンジャーは挑戦を辞めない。

 この最後のボスとして番組開始から、君臨し続けたのが、ラッパーの般若である。かなりのベテランであり、フリースタイルバトルが2000年代流行りだしたときから絶大な人気のあったラッパーである。先日フリースタイルダンジョンのラスボス引退を決めた。(明日の深夜、最終戦が番組で公開される。気になったら観てください。abemaとかでも観られるから。)

 彼が、挑戦者とのバトルでぶつけたリリック(歌詞)で忘れられないものがある。

 

老い 俺たちいつかは死んで

まだこの人生1回で

このクソゲームに賭けた命 

まるで馬場 対 猪木くらい熱い奴

 

 果たして「老い」が本当に「老い」だったかは分からない。挑戦者への呼びかけとしての「オイ」だったのかもしれない。この真実が分かるのだとしても、私は分からないままでいいと思う。 只々このリリックのこの始まりに、私は引き込まれて、輝きを見出した。それ以外に何が必要なのだろう。本来の意味が分からずとも、身体がわかってしまったものがきっと有る。

 私は「断片」という言葉をよく使う。物事の全体、全貌を本当に全て捉えることは不可能だと思っているからである。断片的なことを集める。結局それに尽きるのではないかと思っている節が私にはどうも有るようだ。断片を見つめて、思考することは自分に合っている気がする。もし、合っていなくてと好きなんだと思う。

 

 正月の話をする。私はきまぐれな考えで正月、大学最寄り駅に居た。連れと初詣をして、賑わう原宿を散策し、おやつどきには、新宿のバーガーキングでナゲットを食べた。夕食は新宿のお店で鍋のコースを予約していた。予約の時間まで、あと3時間ほどある。私たちは暇つぶしに定期の区間である大学最寄りまで電車で行くことにした。

 正月の大学最寄りを堪能して、時間に余裕を持たせて帰ろうとプラットホームに降りると、電車が遅れている。女の人が泣いている声がする。人身事故が起こっていたのだ。この駅で、何分か前に。

 「まだ、2時間弱あるから大丈夫。」と構えていた。命が亡くなるということは、悲しいことだ。それが起こっているのだから、私は関わりがなくとも、最大限尊重しなきゃいけないと勝手に思っているからだ。ただ懸命に待つ。周りの人々は時計ばかりを見ていた。駅員の方々は、ちょっと前まで命であったものの対応をしていたのだと思う。

 「復旧の見込みは○○時を予定しております。」

○○時って予約の時間をとっくに過ぎてしまうではないか。iPhoneの時計を見ると、あと1時間で予約の時間だ。焦った。人身事故が起こると怒り出したり、駅員に文句を言ったりする人がいる。「死ぬなら、迷惑が掛からないように死ね」なんてネットに発信してしまう人がいる。その理由がなんとなくわかってしまった瞬間であった。いや、分かってはいたけど、分かりたくなかっただけだ。

 その後私たちは、その駅から出ている渋谷行きバスに乗り、渋谷から新宿へ山手線で移動した。事情を話すとお店の方が時間を大幅にずらしてくださった。30分強の長い長いバスの旅だった。聞いたことのない名前のバス停を沢山通った。その時はそれらのバス停の名前の物珍しさに興味を持ったはずだが、もうひとつも思い出せない。

 

 高校1年生の時、世界史を担当してくださっていた先生がいた。結構不思議な人だったのだけど、私は好きだった。なんでもボロアパートに住んでいて、住む部屋とは別にもう一部屋借りているという。その理由は借り手が長年いなく、家賃を値引きしてもよいから、どうしても借りてほしいと大家さんに頼まれ、借りたと先生本人が授業中に話していたような気がする。住んでいない部屋には膨大な数の本を置いているとも話していた記憶がある。かなり不思議な大人だった気がする。学年が上がると同時に違う高校へと転勤になった。

 夏だったか秋だったか忘れたが、この先生が授業中、私たちのクラスに突拍子も無い提案をしたことを覚えている。クラス全員で白い鉢巻をして、ガッツポーズをした写真を撮ろうと言ったのだ。私たちはしょうがなく鉢巻をして写真を撮った。そんな事を言い出したり、提案したりするように見えない先生だったのだが。理由は何だったのだろう。

 その時の写真は、私の部屋のコルクボードに今もなお貼られている。なんだか外せずにいるのだ。

 

 寺山修司の詩にこんなものがあるのを思い出した。

セーヌ川の手回しオルガンの老人を
忘れてしまいたい

青麦畑で交わした初めての口づけを
忘れてしまいたい

パスポートに挟んでおいた
四ツ葉のクローバー
希望の旅を

忘れてしまいたい
アムステルダムのホテル
カーテンから差し込む朝の光を
忘れてしまいたい

おまえのことを
忘れてしまいたい

 

(『思い出すために』より)

 

全てがバラバラの断片である。思い出はどんなに美しくとも、悲しくとも、自分のものであったとしても、そっくりそのまま全部を思いのままに扱うことはできない。映像として脳内で再生できるかもしれない、しかし再生するときに脳裏に浮かぶのは、その断片で一番強く印象に残っていた画であるだろう。チャプターとしての画である。そして青写真として写し出された思い出であろう。

 私が『断片的なものの社会学』を読もうと思ったきっかけが、女児向けアニメにおける社会学を論じたnoteに引用されており、最近またそのnoteを再読したときに存在を思い出した。このnoteは大変興味深く、読んでいて泣きそうになってしまった。面白い文章を読むと、頭がぐらぐら来て目頭が熱くなるのだ、私は。

 大学図書館に行くと、すぐに見つかった。借りて美容院にいった。髪を切り終わると14:30だった。バイトまであと2時間以上ある。バイト先のすぐそばのスターバックスで読むことに決めた。

 筆者は社会学者であり、大阪や沖縄、その他いろんな地域の人にインタビューしたり、電話調査をしたりした様子がいくつか載っていた。只々それだけということではなく、様々な立場の人と関わって、その上で筆者として感じた事をまとめている文章がほとんどである。

 そして、筆者は体験や経験、思考、出来事を断片的に置いていく。章立てされ、章題が付いているから、何を輝いているように見せようみたいなガイドラインは一応存在しているのだが、強要するようなものは無いような感じで、読まされているような感覚は1冊読みきるまで、どこにも無かった。

 「断片」について語る場面もあった。

 

 自分のなかには何が入っているのだろう、と思ってのぞきこんでみても、自分のなかには何も、たいしたものは入っていない。ただそこには、いままでの人生でかきあつめてきた断片的ながらくたが、それぞれつながりも必然性も、あるいは意味さえもなく、静かに転がっているだけだ。

(「自分を差し出す」より)

 

 確かに、私がこれまで集めた断片に意味があっただろうか。意味は結局自分が付けたり、考えたりしただけのものなのではないだろうか。関連もきっと自分の感性に則って生まれる。断片が断片でなかった頃、ひび割れのないひとつのものだった頃持っていた意味と、私が拾った断片に与えた意味はきっとイコールではない。

 

 繰り返すが、ここで私は、誰もが自己実現の可能性があるとか、誰もが夢をかなえることができるということを述べているのでは、まったくない。

 むしろ、私たちの人生は、何度も書いているように、何にもなれずにただ時間だけが過ぎていくような、そういう人生である。私たちのほとんどは、裏切られた人生を生きている。私の自己というものは、その大半が、「こんなはずじゃなかった」自己である。

(「自分を差し出す」より)

 

こんなことすら述べている。夢や希望も無いと思うだろうか?確かにそうかもしれない。どれだけ足掻いたって、泣いたって、叫んだって望んだように変わらない自己がある。

 だからといって、傷つくから物事をやめてしまうことが最善の選択かというとそうではない。何にもなれなくたって、泣く事を、笑う事を、思い出す事を、思考する事、祈る事を続ける意味はあるのかもしれない。本当に無意味であることに意味は無いのだろうか。生きてから何年間、何十年間後に訪れる、抗えない死という肉体のゴールを知っていたとして、ゴールするまで何かに煌めきを探そうとしたり、輝こうとしたらすることはおかしな事だろうか?筆者はリアリズムの考え方を持っていながらも、それらをバカにしたり、排斥したりしようとはしない。

 筆者は、他者について否定をしない。どんな経歴を持っている人であっても、真摯に対応し、話を聞く。しかし、どんな人にでも引っかかりを作っている。いや、断片を集めているうちにそれら同士が引っかかってしまうということだろうか。

 突然、集めた断片がきらきらと輝くことがある。ぬらぬらと灰色に照る断片もある。ひとつの断片の先端が光ったかと思えば、呼応するようにその他の断片が煌めくことがある。関連があろうとなかろうと同時に輝くこともあるのだ。私はその輝きの連鎖から発想を、妄想を膨らませることがよくあるし、それで文章を書いたりすることが多い。この本を読んで再認識した。

 筆者の本当に伝えたかったことは、私に全く伝わっていないかもななんて思う。ただ自己の思考の構造をなぞっただけなのかもしれない。伝わるべきことは伝わっておらず、私の自己の内面追求の餌にしかならなかったのかもしれない。しかし、これは価値のある読書であっただろうと思う。