【感想】『秒速5センチメートル』① 第2話コスモナウト
『秒速5センチメートル』を再度視聴。
1日に1作品以上、何かに触れる日々が続いている。
毎度のことになるがネタバレ・偏見を含むので嫌な方は、回れ右で。
やはりこの作品は、第1話「桜花抄」と最終話「秒速5センチメートル」が目立っていると思うし、全体の主題もそこにあるのだと考えている。
しかし、今回見直してみると、第2話「コスモナウト」が私の目を引いた。
海と片思い、瞬く間に過ぎてゆく夏に、果てのない宇宙。
この物語は、作品内でどんな立ち位置なのだろうか。大変気になった。感想を綴っていこう。
1.澄田花苗と遠野
結局、第2話のヒロイン澄田花苗は、主人公遠野の心に何も残すことが出来なかった。おそらく小説版にて補完されているのだと思うが、映像版ではしっかりと想いを告げているシーンはなかった。遠野が鹿児島に転校してきてから5年間、彼のことをずっと想い続けていた花苗だったが、ここぞという告白の機会をふいにしてしまう。
純粋な玉砕ではなく、もっと痛烈な失恋をするのである。
花苗が時折語る遠野への恋心はポエジーがあり、送るあてのないメールを書いては消す遠野との似た部分を感じられる。遠野の思想だけが特別でなく、思春期の思想としてはありふれたものだとして描くためだろうか。
2.どうしようもない「分断」
この第2話では、幾度か「分断」を感じさせる構図が登場する。
打ち上げられたシャトルの尾から伸びる白煙は、空を真っ二つに分ける。
まだ日が少し残る空と、星の瞬く夜空を一本の線が隔てる。
浮かぶ満月を半分にするような電線。花苗の想いが到底届くことはないのだろうと予感させるようなはっきりした分断がある。
これは後述の内容に繋がる。
3.「きみとぼく」のセカイは存在しないこと
新海誠監督の作品はセカイ系の文脈で語られる機会が多いと思う。しかし、『秒速5センチメートル』はセカイ系では全くない。超越した愛は描かれない。社会に、生活に縛られる肉体は恋愛によって解放されることはない。(セカイ系の定義はまた今度書きたい。現時点ではまだ浅い結論しか持っていない。)
第2話「コスモナウト」は分断の記号を多く使い、それを描いたように思う。
「セカイ系」を描かなかったのではなく、「非セカイ系」を描いた。
主人公と花苗の間には、見えないけれどはっきりした分断があって、絶対にひとつになれないということだ。互いの境界線が曖昧になることは決してない。
この作品は、困難な壁、地球の危機があろうとも「きみとぼく」に収束するセカイ系ではなく、自分と相手が「きみとぼく」でなかったことに気づくという結末であった。いうならば「非セカイ系」的である。
「理由はわからないけど、この人と一緒に生きていけない気がする」のは極めて現実的な感情だと思う。ありふれている。
総じての感想
コスモナウトがあるから、第1話と最終話がつながるのだろう。最終話があんなに悲しく感じるのだろう。
ひとつになれない二人を描いたことで、作品全体のラストの捉え方を定めているように感じる。
奇跡が起こらないのは、現実だからである。
そんなことを思った。