小麦粉惑星

誰かいつもマーガリン潰してる。

パヒューム

以前勤めていたアルバイト先では、朝のシフトに入ることが多かった。

朝のシフトは主婦さんの割合が非常に高く、主婦さん2,3人、俺1人みたいな日がよくあった。

 

その日は台風か大雨で、お客さんが全然来ない日だった。

 

仕込みを手伝いながら、少し談笑していると、1人の主婦さんが

 

「昔はそんなことなかったんだけどねー。最近、カタカナに弱くなっちゃって〜」

 

と話題をふってきた。

 

他の主婦さんからも

「なんか分かるわ〜」「そうよね」

みたいな同意の声が上がった。

 

「○○くんは若いからそういうのないよね?」

 

「いや、俺にもそういうのありますよ!」

 

俺にも経験がある方向に舵を切った。年齢による衰えみたいな話の展開にするのは暗すぎると感じたからだ。

 

perfumeをカタカナで書くとき、一瞬わかんなくなっちゃったりします!」

 

「まぎらわしいとそうなるよねー」

「確かに(笑)」

 

これはエピソードとして、なかなか丁度いいチョイスだったんじゃないか?重くならないし!

やったぞ!と思っていると、

 

主婦さんたちがメモに何やら書き始めた。

 

そして、

 

「これだっけ?」

「変じゃない?」

「なんかしっくりこない」

 

俺にメモを見せてきた。

 

パヒューム

 

パヒューム

 

パヒューム

 

全部同じ、そして全部違う。

これは現実か、それとも悪い夢なのか。

 

 

 

つっこんじゃうぞ アクセルべったり踏んで の良さについて

B'zの 「Liar!Liar!」って曲があるんですけどご存知でしょうか。

恐らくピンと来ない人も、多分サビとかは音楽番組の名曲ランキングとかで一度くらい聴いたことあると思う…。

 

ざっくり説明すると、不倫相手の女性とその旦那と仲よさそうに歩いてるのを目撃して、やっぱり俺は遊ばれてたんだ、虚しいなみたいな曲なんですけど、超好きなフレーズがありまして…

 

つっこんじゃうぞ アクセルべったり踏んで

 

ここのフレーズめちゃくちゃ好きって話をしたいんですけどいいですか?

 

(可能な方は一度聴く、または聴きながら読んでみてね)

 

まっ黄色いシャツ着ちゃって 歌い出しそうな表情さらして

ダンナと仲良く腕組んで 道横ぎってんのはオマエだろう

 

この辺までは単語の区切りが少し独特なこと以外は普通なんですけど、この次なんですよね。

 

つっこんじゃうぞ アクセルべったり踏んで

 

すげぇモッタリしてる〜〜〜

気持ちいいくらいモッタリしてる〜〜

「つっこん」と「べったり」の余韻がめちゃ残るところが耳に良すぎる。

 

このモッタリしたフレーズ感が日本の祭事っぽくて好きだ。ズンドコ、ズンドコしたリズムが大変日本に合っている気がする。なんというかこれは土着だ。

 

海外バンドのトーキング・ヘッズのPsycho killer って曲を盆踊りアレンジしたものをYouTubeで観たことがあるのだが、なんとなくこのモッタリ感が生むカッコよさと似てるなあなんて思った。

 

Liar!Liar!って超ロックな曲で、サウンドとかもゴリッゴリだなって思うんだけど、この独特な日本語の乗せ方がカッコよさの秘密なんじゃないだろうかと感じている。

 

この曲というより、B'zはそこが魅力のひとつだと思う。日本用にチューンナップしたロックをいつも感じる。

 

Liar!Liar!聴いてみてね。

私は寝ます。おやすみなさい。

 

 

 

今週嬉しかったこと。

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今週、高校3年のときのクラスメイト何人かで集まる機会があったんだけど、非常に良かった。なんだよ非常に良かったって。くだらないレビューかよって感じなんだけど。純粋に楽しくて良かった。

幹事をやってくれたクラスメイトの店の選定がナイスすぎて、超充実した会だった。ありがとうございます。

長居しやすい居酒屋って皆さんどうですか?俺は大好きです。あと埼玉って、大体居酒屋空いてるからいいよね。

卒業してから全然会っていなかった人も居たから、大学時代の話を中心に色んな話をした。思い出話もしたし、本当にあっという間に時間が過ぎていった。5時間くらいいたけど、すぐ終わった。

参加してみて、改めてみんな本当に丁寧な人だなと思った。細かなところまで気がつける人たちばかりで、「気遣いができる人」のひと言で片付けたくないくらいだ。すごく良い環境に身を置いていたのだなと感じた。

あと、みんなそれぞれの良い部分を残したままどんどんアップデートを重ねているなと思った。まるっきりイメージを変える、自分を作り込むことも並大抵のことではなくて凄いんだけど、俺はそれぞれの根っこを忘れることなく、アップデートしていく人に親しみを感じる。

 

すごく元気がもらえた気がして嬉しかった。また開催する?ぽいのでまた参加したいな。超良い日だったので日記として更新。

皆さまありがとうございました。幸せになってほしい。切実に。

これから「エモい」はどこに行くのか?

「エモい」という言葉がわからない、なかなか馴染めずにいるという話を以前ブログに書いた。

 

bevecipenne.hatenablog.com

 

この記事を書いてから、そろそろ1年半が経とうとしている。言葉への抵抗感は徐々に薄れ、自ら進んで使いはしないが、かなり理解を深め、わざわざ距離をとることはしなくなった。

言葉を尽くすことは大切だけれど、決してすべてじゃない。「エモい」の正体をひとつずつ紐解いていくことが、いつでも求められるわけじゃない。そんなことに気が付いた。かなり遅かった。私は言葉に重きを置いて生活したいと常に思っているけど、そうじゃない人もいる。だから、「エモい」に反発しようなんて思わなくなったのだ。

文脈を省いてでも、気持ちを伝えなくてはいけないことはある。だけれど文脈が確かに其処にあったことを伝えるため、「エモい」の1語に置き換えるのだろう。少しでも「物語があったこと」を残そうとする感性が浸透していると考えると、かなり救われたような気がするのは私だけだろうか。

 

「エモい」に対して昔ごちゃごちゃ難癖つけてごめんなさい! 

などと謝るために、今回記事を書くことにしたわけではない。「エモい」の行く末についてだ。

 

 

「エモい」は瞬く間に消費された。目を引く形容詞として至るところに添えられた。作品の紹介文に、キャッチコピーに。インターネット広告に。

「エモい」はトレンドとして、様々に姿を変えて出荷されていった。「エモい」風のものが好まれるとして、人工的なエモいものが量産された。そして、それらを称賛する言葉も「エモい」だった。

「この○○がエモい」とか「エモい○○」に対して、多くの人は耐性が付いてしまったような気がする。繰り返されるそれらの用法に飽きてしまったという意味だ。メディアで使われすぎることがどれだけ言葉の寿命を縮めてしまうのか詳しくは分からないが、そういった側面はきっとあるだろう。

商業的な「エモい」を受け付けなくなる人も一定数増えただろう。こういった「エモい」を毛嫌いする人をよく見かけることがある。

これと、お笑い芸人の千鳥 ノブのツッコミは好きだが、素人のする「千鳥 ノブ風のツッコミ」は嫌いな人は多いみたいなことがなんとなく類似するかもしれない。

こちらはプロの技術、ノリを一般人が真似するという形だが、違うステージに輸入されたことによるギャップ、それに伴った評価といったところだと思う。

 

結局、受容する側の言葉だったのだ「エモい」は。感想を述べる時に適した形容詞だった。

作る側、発信する側がこの言葉に頼ってものを作るべきでなかった。

本当に個人的だが、そんな風に感じる。結果的に土俵を選ぶ言葉だったと今更明らかになったみたいな感覚だ。

「あぁ、はいはい、エモい系ねー」と先入観を持たれることは、作品に触れた後「エモかったなー」と感想を持たれることとかなり違う。長期的にみると前者は損失なのではないかと予想している(手に取ってもらい、購入に繋がる点だけでみるとプロモーションとしては成功しているのだと考えられるが)

「エモい」を使うことの否定ではなく、「エモい」を使ったブランディングが危ういという話だ。消費者の好んでいるもの、傾向にあったものを作ることは大事だが、「エモい○○」みたいな売り方は無限に続けられるものではない。

 

所謂「エモいもの」は身の回りに無数にあって、音楽や文学、漫画や演劇みたいな芸術だけじゃなく、生活の中にも沢山あって、みんな何処かで触れてきたはずだ。

その表現しきれない感情を「エモい」に置き換えていただけなのだと私は思う。

ある体験に対して、表現しきれない感情を抱くことは、恐らく言葉を尽くすことより大切なことなのだろう。(順序の問題もある)

元来「エモい」が指すものは、その人だけが抱いた想いのことだと感じる。納得のいく名前を付けられるまで「エモい」という仮ラベルを貼るだけで、特別なものだった。自分だけのオーダーメイドの感情だ。これを大切にするべきだった。

なんだかんだ「エモい」はずっと使われる言葉になっていくのだろうと思っていた。支持される言葉であり続けるのだろう、時々変異しながらも言葉としての歴史を作っていくだろうと。突飛な響きであるが、その根源自体は日本人が大切にしてきた感情だったから。

しかし、ゆっくりと、そして確実に「エモい」は淘汰されていく方向に舵は切られてしまっている。このまま死語になっていく可能性は以前より高まった。

オーダーメイドの感情を指していたはずの言葉が、レディ・メイドな商品として大量消費されてしまった結果がこれなのだとしたら、皮肉で悲しい話である。

 

 

 

 

 

【感想】『秒速5センチメートル』① 第2話コスモナウト

秒速5センチメートル』を再度視聴。

1日に1作品以上、何かに触れる日々が続いている。

 

毎度のことになるがネタバレ・偏見を含むので嫌な方は、回れ右で。

 

やはりこの作品は、第1話「桜花抄」と最終話「秒速5センチメートル」が目立っていると思うし、全体の主題もそこにあるのだと考えている。

しかし、今回見直してみると、第2話「コスモナウト」が私の目を引いた。

海と片思い、瞬く間に過ぎてゆく夏に、果てのない宇宙。

この物語は、作品内でどんな立ち位置なのだろうか。大変気になった。感想を綴っていこう。

 

1.澄田花苗と遠野

結局、第2話のヒロイン澄田花苗は、主人公遠野の心に何も残すことが出来なかった。おそらく小説版にて補完されているのだと思うが、映像版ではしっかりと想いを告げているシーンはなかった。遠野が鹿児島に転校してきてから5年間、彼のことをずっと想い続けていた花苗だったが、ここぞという告白の機会をふいにしてしまう。

純粋な玉砕ではなく、もっと痛烈な失恋をするのである。

花苗が時折語る遠野への恋心はポエジーがあり、送るあてのないメールを書いては消す遠野との似た部分を感じられる。遠野の思想だけが特別でなく、思春期の思想としてはありふれたものだとして描くためだろうか。

 

2.どうしようもない「分断」

この第2話では、幾度か「分断」を感じさせる構図が登場する。

打ち上げられたシャトルの尾から伸びる白煙は、空を真っ二つに分ける。

まだ日が少し残る空と、星の瞬く夜空を一本の線が隔てる。

浮かぶ満月を半分にするような電線。花苗の想いが到底届くことはないのだろうと予感させるようなはっきりした分断がある。

これは後述の内容に繋がる。

 

3.「きみとぼく」のセカイは存在しないこと

新海誠監督の作品はセカイ系の文脈で語られる機会が多いと思う。しかし、『秒速5センチメートル』はセカイ系では全くない。超越した愛は描かれない。社会に、生活に縛られる肉体は恋愛によって解放されることはない。(セカイ系の定義はまた今度書きたい。現時点ではまだ浅い結論しか持っていない。)

第2話「コスモナウト」は分断の記号を多く使い、それを描いたように思う。

セカイ系」を描かなかったのではなく、「非セカイ系」を描いた。

主人公と花苗の間には、見えないけれどはっきりした分断があって、絶対にひとつになれないということだ。互いの境界線が曖昧になることは決してない。

この作品は、困難な壁、地球の危機があろうとも「きみとぼく」に収束するセカイ系ではなく、自分と相手が「きみとぼく」でなかったことに気づくという結末であった。いうならば「非セカイ系」的である。

「理由はわからないけど、この人と一緒に生きていけない気がする」のは極めて現実的な感情だと思う。ありふれている。

 

総じての感想

コスモナウトがあるから、第1話と最終話がつながるのだろう。最終話があんなに悲しく感じるのだろう。

ひとつになれない二人を描いたことで、作品全体のラストの捉え方を定めているように感じる。

奇跡が起こらないのは、現実だからである。

そんなことを思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕たちはもう一度『あねどきっ』を読まなくてはならない。

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自室の本棚に目をやると『あねどきっ』がある。

『いちご100%』『初恋限定。』でお馴染みの河下水希週刊少年ジャンプで連載していたラブコメ漫画作品だ。久々に読み返してみると、まあ面白い。

僕は『いちご100%』に負けない隠れた名作だと思っている。

この自粛期間中に、僕たちはもう一度『あねどきっ』を読まなくてはいけないとまで思うのだ。

 

  1.  どんな漫画なのか
  2. 薦める理由は何なんだ       
  3. 恋愛描くのが巧すぎる                   

 

 

1.どんな漫画なのか

中学1年生の洸太(主人公)が、ある夏の暑い日、ちょっとHな女子高生萩原なつきと出会ったことから生活が激変。何故かひとつ屋根の下で暮らすことになり...。という導入のラブコメディ。作品序盤は洸太の片思い相手の奏を巻き込んでのドタバタ劇を中心に展開していく。全3巻。

 

これだと、いつの時代のジャンプにも掲載されているちょっとお色気シーンが多いラブコメ漫画という印象を受ける。確かにその側面は否めない。毎回ソフトなお色気描写が6割を占め、不自然なくらいドキドキするシーンが散りばめられている。僕は小学生の頃にジャンプ本誌を購読していなかった為、体験していないが、『あねどきっ』を読んでいる友達は、読んでいることを言いふらされ、晒し物になっていたような記憶がある。小中学生の頃って、ジャンプ連載のラブコメを読んでいるとダメみたいな謎ルールありましたよね。マジで何なんだ。

ToLOVEる‐とらぶる‐』の話も当然のようにアウトでしたよね。まあ、古手川唯好きな小5とかが、わらわら湧いてきたらヤバすぎるからな(絶対大オタクになる)

 

話を戻すと『あねどきっ』はただのラブコメ作品ではないというのが、僕の持論だ。

 

2.薦める理由は何なんだ

 

重要な場面は絶対に茶化さない

これに尽きる。展開が早く、合間にお色気を挟んだこの作品は一見目まぐるしく思う。その一方で、思春期に入ったばかりの中1男子である主人公が恋愛や青春の出来事を通じて成長していくという軸は一貫してブレない。恋愛や青春という未知に主人公はどう向き合っていくのだろうか。ここでヒロインである「萩原なつき」がカギとなっていくのだ。

萩原なつきという存在は、年の離れた魅力的なお姉さんであると同時に、主人公洸太にヒントを与える家庭教師のような役割でもある。彼女がくれたヒントを活かして、洸太は考え、自分なりの答えを導き出す。これを茶化したり、ギャグにしたりすることは絶対にない。

猛スピードで過ぎてゆく思春期だが、ひとつひとつの成長は繊細で美しいものだ。それをないがしろにせず、それまでの展開に流されることなく丁寧に描く。最高の成長物語の色が濃い作品だと思う。

そして洸太の一生懸命さや勇気に幾度となく、なつきは心を打たれる。この心を打たれる描写に注目して読んでほしい。なつきは完全な家庭教師になりえない事がわかるだろう。洸太から見たなつきは十分大人だが、一般的に見れば、なつきはまだ子どもである。成熟している部分もあれば、まだ未熟な部分も多く残している。あくまで「大人びた子ども」にしかすぎない。

なつきも洸太と同じく「大人になるってなんだろう?」という問いに答え切れていない子どもなのである。

 

3.恋愛を描くのが巧すぎる

河下先生は恋愛を描くのが巧すぎる。『いちご100%』でも、『りりむキッス』でもわかっていたのに食らってしまった。きっちり重いストレートをど真ん中に打ち込むスタイルが素敵だ。

そして空間の使い方が凄い。詳しくは語らないが物理的分断で心のすれ違いを表現するのが巧すぎる。永遠に交わらない線になってしまったのではという切なさ、取り返しのつかなさの最高峰ではないか。これ少年漫画か?という緻密さ。

 

 

 

こんな感じで不朽の名作『あねどきっ』は最高なのでみんな読んでくれ。いや読まなくてはいけない。青春があふれ出してくる。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

お題「#おうち時間

【感想】『言の葉の庭』

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面白かった。この作品に奇跡や魔法は登場しないけれど、それと同時に徹底したリアリティの排除もなされている。では何があるのか、美と質感だ。

現実っぽいけどリアリティは無く、質感だけ残る。そこが良い。

何が良かったのか詳しく書く。未視聴の場合はこの後は読まないほうが良いかと(偏見がすごいので)

 

  1. 女性美をとことん描く

自然美に劣らない、女性美の鮮烈さよ。

ヒロインの首とか、ビール飲むときの喉、足首、めちゃくちゃ綺麗だなと思いながら観ていた。

こんなに過剰に描写する!?とも思ったんだけど、これがないと終盤の展開には繋がっていかないんだろうな。

 

「まるで世界の秘密そのものみたいに彼女は見える」

この台詞が、物語の入り口に当たるような台詞だと私は思う。

「世界の秘密」たるヒロインの存在は、ミステリアスで、それ以上に魅力的でなければならない。もしこれが半端な美だったら、恐らく駄目なんだろう。

だから、あそこまで女性美を描いているように感じる。ヒロインのこまかな仕草と生活風景だけでずっと画面が持つくらい美しい。

 

新海誠監督のインタビュー読んだら、
「10代の男の子が観て女の人の足が好きになってしまうくらいの映画にしたいと思いました。」
とあった。やっぱりコンセプトの一部だったんだ。通りで…。

 

そして、女性美と自然美を余すことなく表現したことが、恋愛作品であるのに「性」でまとめることをせずに済んだ理由のひとつであるように感じた。

 

 2."会える"から"会えない"へ

 

主人公とヒロインお互いの考えが「雨が降ったら会える」から「雨が降らないから会えない」に変わるのが良い。どんなに美しい関係であっても、自然は、世界は贔屓してくれない。都合よく奇跡は起こらない。

しかし、ヒロインの靴を作る約束までしたのにお互いの名前すら明かさないというのは、全く現実味がない。当然梅雨が終わってしまうということは、お互い分かっているのに連絡先を交換することもない。このように列挙するとリアリティの排除が顕著にみられるが、作品全体としては、あまり違和感無く観られる。

果たして「世界の秘密そのもの」のような女性と連絡先を交換しようと思うだろうか。分からないままにしておくという気持ちに少しも共感できないということはないだろう。

 

3.お互いの境界が融けあってゆく瞬間

 

2つのシーンから感じた。

ヒロインの足の採寸をするシーンと、クライマックスのシーンだ。

前者では素性のわからない2人が通じ合う瞬間を描き、後者では素性が明らかになった上でお互いをぶつけ合う瞬間を描いていたように私は思う。

主人公とヒロイン、2つの「個」が触れ合い、その境界が甘く緩む、そして最後には1つに融けあっていく様を丁寧に描いていた。

 

4.「性」で恋愛をまとめない

「性」を展開の道具にしなかったのも印象的。足の採寸のシーンは隠喩だと思ったけれど、そのシーンまでに女性美を延々と描いてるから、そうじゃないと視聴者は錯覚する。官能的だけど、エロくない。女性美と自然美が補正をかけてくれているお陰で視点が逸れていかない。

ヒロインを追い詰めて退職に追い込んだ原因の女子生徒が「淫乱女」って言った場面くらいじゃないか、「美人の女性教師」という属性に対するやっかみや、いじめの内容を想起させるシーンは。主人公がその言葉を聞いた瞬間に、女子生徒の頬を打つシーンも含めてだと思うけど、ここでクライマックスへの厚みを出してるのかなと感じた。そして、必要最低限で留めている感じがする。詳しくしすぎたり、増やしすぎると俗っぽくなってしまうから。いい塩梅だった。

 

 

全体を通しての感想としては、

理想的な男女の恋愛で綺麗なんだけど、あまりにも「性」を遠ざけすぎていてリアリティがない。でも本当に人間が求めているのは、こんな心の交流なんじゃないの?みたいな作品だった。リアリティの有無にとらわれない質感があって良かった。

 

視聴済みの方、作品の感想教えてください。知りたいので。