小麦粉惑星

誰かいつもマーガリン潰してる。

短歌と俳句 その2

 この前書いた「短歌と俳句 その1」を読んでない方は、すぐ下のリンクから読んでいただけると助かります(何が助かるのかは謎)

 

 

 現代短歌を大学に入ってから読んだり、詠んだりしていて、たまにブログに載っけるみたいなことをしていた。褒めてくれる人はやはり何人かいたのだが、特に何が良く詠めていて、何が足りていないのかみたいなことは分からないでいた。まあ当たり前っちゃ当たり前だ。まともに詠めないうちに自己分析なんてとんでもない。それでも短歌を作ることだけはやめなかったのでかなりの数(恐らく150〜200首ほど)にはなった。やめなくてよかったと思う。多少の分析と反省はできるようになった。

 僕の所属する学科には「実習」という形で、選択必修がある。2単位取らなきゃならないのだが、僕は去年履修の抽選に外れて1単位分を今年取らなくてはならなくなった。昨年取得した書道の実習をもう一度履修しようかと思ってシラバスを見ると、今年から俳句の実習が選択に加わっていた。単純に「いいなー」と思った。面白そうで。文芸を自らやろうとする人に憧れていたんだと思う。プロ・アマチュア関係なしに文章で表現者になれる人間が羨ましかったのだと思う。自己表現のまともなプラットホームがブログ、たまに任せていただけるエッセイみたいな記事という感じだったから、なにか参考にしたいなみたいな気持ちもあった。

 実際に授業を受けてみると、俳句には基本の型がいくつかあって( 「や」「かな」などの切れ字を決まった位置に置くような型)聞いた当初は煩わしさがあった。こんなの穴埋め問題じゃんみたいな。

でも、作ってみると基本形のありがたみが分かった。フォームが定まらない状態で速いストレートは投げられない。切れ字の前に置いた名詞に感動の中心がくるように、切れ字を同じ句で2つ使わない、これらを気をつけるだけで決め所が見える句になるのだ。

 毎週2句くらい考えてくるという課題があり、良かったものを先生が紹介し、惜しかったポイントを添削してくださる時間が授業中にあった。作者の着想を大切にしながら添削していく先生に、やはり芸術を仕事にしているすごさを感じた。語順や助詞ひとつで、こうも印象が変わるのか。面白い言語を母語としているのだなあと思った。

 幸いにも作った句を褒めてもらったり、句会(無記名で句を出し、投票する会)で最多票をもらったりと嬉しいことが続いた。表現したことを評価してもらえるのは嬉しいよ。やっぱりさ。3秒でも人の心に残れば意味があったなと思う。

俳句を作り始めて3ヶ月くらいだが、ちょっぴりわかり始めてきたような気がする。主に難しさが。

 句に込める感情が大きすぎても、小さすぎても良くない。季語と言葉の取り合わせが良かったとしても、それを繋ぐ助詞ひとつで方向性がブレてしまうこと。

 これが難しい。5・7・5の17文字で出来ることは多くない。けれど少ないわけでもないのだ。心を尽くす必要がある、心だけあってもいけない。どんなに短くても、一句一句真剣に作る。

1枚しか撮れないカメラで何を写すか、1発しか装填されていない拳銃で何を撃つのか。

 

人殺す我かも知らず飛ぶ蛍          前田普羅

 

名人といわれている俳人の感覚にひやりとする。季語をふたつ使うなどの目に見える技を凝らす句もあるが、それだけでなく、海のように広く深い観念、情念に浮いている微かな季語ひとつに何かを託す。高尚なことでも、ありきたりなことでもいい。祈りだっていい。これが危うい。そしてこれが僕の俳句における目標なのである。

 短歌と同じで、瞬間を切り取ることに適した韻文形態だと思う。当たり前だが短歌よりも言葉の量で綴ることはできない。日本の四季に根ざした季語をどこまでものにできるか、そして言葉を託せるかという点に比重があるかなという感じだ。季語は大事っていうと平たくなってしまうのだけど、大事ですよ。歳時記って書物がある。俳句作るときは必携の季語の辞書みたいなもの。この花がいつ咲くか、どんな色で、どんな風に咲いて散るのか、別の名称や俳句で使われる際の名称、色んなことが載ってる。つまり「○○はこんな咲き方するから、俺のこの句に込めた想いを託すのにあってる季語だ。」みたいなヒントがある。咲き方について句で言及する余裕は無いのにですよ。今は季節って感覚が薄れてきているのかもしれないけど、歳時記めくってると覚醒する。知らんかったけど、この花どんな形してるんだろ〜??みたいな。季節と共に生活してるんだから、ちょっと知ると単純に面白いですよ季語。

 素敵な短歌や俳句を耳にしたり、目にすると「思っていたより世界は○○だなあ」と思う。大抵○○の部分には面白いとか美しいとか、悲しいとかありふれた形容詞が入る。ありふれた気づきというのがかなり大きい。自分も視界に入っていたのに、気に留めなかった世界が詠まれていることが多くて、感動すると共に勉強になる。

 そして、1番感じることは「心って結構伝わるじゃん」ということだ。他人と完全にわかり合うことはできないと思っているのだが、作品にこもった意思みたいなものが断片的にでも伝わってくると、言葉って意味があるじゃんと感じる。

 これまで作った俳句は春夏のものだけだ。あともう少しで秋が来る。冬だって生きていれば来だろう。秋冬も俳句を作っていきたいと思う。

 ピントの合わせ方が分かってきたから、俳句と一緒に短歌も楽しくなってきた。メモに残した作品を眺める。色んなことを思うのだろう、明日も明後日も。