小麦粉惑星

誰かいつもマーガリン潰してる。

今年のM-1の見取り図すごい!

 多分皆さんM-1を観たんじゃないかなと思う。一昨日の夜からネットは、「M-1」「和牛」「ミルクボーイ」「コーンフレーク」「ぺこぱ」「最中」そんな言葉でいっぱいだった。毎年3つあるテレビで中継される大きなお笑いの賞レース、その中でも注目度が高いM-1グランプリという大会は1年の中で1番熱く、心の底から笑えるような日を僕たち日本人にくれるように思う。

毎年僕はM-1を観て、笑うのが恒例行事になっている。毎年毎年どの大会も面白いのだが、今年の大会は特に好きだった。

Twitterでごちゃごちゃリアルタイムで言ってたことを暇なのでまとめた。Twitterでは発信しないとツイートしたので、ブログに書く。読みたい人は読んでください。でもちょっとうるさいし、長いから読まないで。

 

なんといっても和牛が最終ラウンドに残れなかったのには驚いた。敗者復活戦を勝ち抜いて、その勢いで優勝してしまうと昨日の放送が始まるまでは思っていたんだけど、そうならなかった。M-1は恐ろしい大会だ。安定感も実力も高いコンビがふと抜かれてしまうことがある。ファイナリストであれば誰が最終ラウンドが行ってもおかしくない大会だと思うのだが、本当にびっくりしてしまった。ネタを披露する順番にもよるだろうけれど、本当に難しい大会だと思った。

ぺこぱは当たった順番を100%生かしきっているように感じた。ぺこぱの順番について、他の方が感想に書いていたことの焼き増しになってしまうけれど、トップバッターでも、かまいたちや和牛のすぐ後ろでも、ましてやミルクボーイの次でも大変だったのではないだろうか。他のファイナリストがネタを披露して、ラストでのぺこぱ。上がった会場のボルテージを利用してのカウンターとしての、あのテンポ感の異様さが効いていた。本当に面白かったし、かっこよかった。ボケにツッコまないで肯定するというのはこれまでの漫才へのメタだ。メタであるからこそ、最大の舞台M-1で刺さる、そんな風に感じた。

短歌を詠むフォロワーさん達はぺこぱをすごく話題にしていた。なんとなく気持ちがわかる。僕はネタに叙情があってぺこぱ素敵だと思った。だが、松陰寺太勇の一言ひとことから人生訓を導き出すのは、何となく自分はしなくていいように感じた。何か得るものがあるネタがこれからの笑いのスタンダードになってしまったら、そこから外れてしまったものが阻害されてしまうなら、窮屈だなと思うからだ。感性や考え方はそれぞれなんだから、好きなお笑い芸人を応援すればいいんじゃないか。違うか。

かまいたちは、というか山内は、結構人間の心に寄り添ったボケをする立ち位置にいて、ポイントカードを今更作れない気持ち、今回も言い間違いを認められなかったり、みんなはトトロを一度も見てないときの気持ちに戻れないなどと主張したりしていた。不可逆の悲しみを訴える。時を何度でも戻し、シチュエーションを繰り返す可逆のぺこぱとは逆ベクトルの叙情がある。かまいたち山内のボケもまたメタであろう。人間の生活におけるメタだ。そしてかまいたちの面白いところは、濱家が山内の主張に優しくしないところだ。ツッコミなんだから当たり前である。可笑しさはあるがある意味正しさを含んでいる山内の意見に同意したら、それこそ一種の啓蒙が広がってしまう。あくまで山内がひとりぼっちになるように舞台を作り上げていく。これがすごく面白いし、メタの増幅に繋がっているような気がする。あくまで2人のボケとツッコミのバランスは均衡が取れていて、この均衡によって完成するのが、ベテランだなと感じた。

決勝ラウンドで、ぺこぱとかまいたちの2組がメタの差し合いをしていたみたいですごく興味深かった。

Twitterにも書いたけど、ミルクボーイからは、芸の写実性、写生のようなものを感じた。ひとつの物を極めて細やかに観察しなくては出来ないネタのような気がした。あそこまで客の感性に入り込んでくるような共感は生み出せない。コーンフレークや最中のような、日本人が想像しやすい食べ物を題材に使って、主なツッコミは肯定と否定の2つのセリフ、これを交互に繰り返す。その間に挟まるのが万人の共通認識に極めて近い一物の観察。肯定と否定の順番は交互だから、パターンは既に読めるというのに笑ってしまう。笑いの大きな波が迫ってきているのはわかっていても客は皆飲まれてしまう。写生という基礎が極まるとあれだけの破壊力がある。凄かった。

 

大会を全体的に観て、最近のお笑いの主流として

 

倫理観や認識のずれ

 

これが主な要素としてあるのではないかと僕は感じた。これらの要素はずっと昔からあるのだと思うが、最近はその色が強いような気がする。

倫理観が必要というのは当たり前のことで、それがどこか欠如した瞬間の揺らぎが笑いに変わる力になっているような気がした。単純にボケツッコミの応酬だけで笑い辛くなっているのかもしれない。

これに関しては、からし蓮根が分かりやすい例かもしれない、ひとつひとつ面白い小技を連発し、コンボを繋げていき、最後のオチへ収束していく。オチの倫理観の無さが本当に良かった。真っ当に面白さを蓄積させていればさせているほど、あのオチは効く。重いパンチとしての役割を担っているように思った。

客が脳内で舞台上のズレを補完する過程が立体感を生むというのもあるだろうな。素人ながら色々思いながら観ていた。

 

ここまで2000字ほど色々書いたが、今回本題としたいのは「見取り図面白かった」ということだ。(なかなか移れなかった)

様々なスタイルの漫才師がいる中で、彼らはシンプルなしゃべくり漫才をしていた。すごく面白かった。当然変化を付けていたし、現代の漫才としてのチューンナップはされていたけれど、ボケにはひとつひとつしっかりツッコむ、そしてボケは何を言われても飄々としていて、ツッコミがちょっと頭に血が上ってるくらいが僕はやはり心地良いなと感じた。テレビの前で気持ちいいくらい笑える漫才だった。

噛んでしまった直後に、すぐにミスを笑いに繋げた。漫才ってカッコいいなとすごく思った。

往年の漫才師像を受け継ぐようなスタイルに感服だった。すごい!見取り図!来年も見たい!そんな感じである。

お互いの見た目をいじるネタを「人を傷つけるネタ」だと見なしてしまうのは簡単だけれど、本当にそれで良いのだろうか。それは悪いことなんだろうか。果たして芸能と道徳を一緒くたに考えていいものなんだろうか。個人の美的感覚に基づく意見を道徳的観点で批判するのはどうなのだろう。

究極的には、この世の中に存在している悪意というものが持つパワーをどう面白く調理するかみたいな話だけれど、客が調理方法に口を出し過ぎるのはどうなんだろう。面白いものは面白いでいいじゃない。表現がし辛くなるのは怖いなと感じた。

 

今年のM-1本当に面白かった。来年もすごく楽しみ。みんなもリアルタイムで観ような!!!約束だぞ!!